「 もうない。
家も財産も元妻と子供たちにくれてやった。
ぼくは、定年退職とともに、グレルことに決めたんだ。
グレルのは楽しいなあ。
ぼくはね、大学を退官して、家族を捨てることにしたんだ。
妻と子供たちときれいさっぱり関係を断ち切った。
ぼくはこれまで、あらゆるものに縛られて生きてきた。
大学や学会での地位、近所の評判、
妻の実家への顔、自身のプライド。がんじがらめだった。
あらゆることに、紳士的、理性的であろうと努め、
微笑みを絶やさなかった。
感情を爆発させることはなかった。
周囲は僕を温厚な紳士だと決めつけていたようだ。
大学教授という通りのいい職業のせいで、
世間の信用も集めていた。役所も、銀行も、信販会社も、
ぼくを疑ったことはなかった。
しかし、本当の自分はそんなんじゃなかった。
ぼくは、紳士なんかでいたくなかった。
幼い頃から、心の中には、噴火しそうな何かが
常にふつふつと煮立っていたんだ 」
『 純平、考え直せ 』 by 奥田 英朗